Mag-log in「手順の線引きは、高瀬に任せましょう」
「私を止める役まで、榊さんが引き受けないでください」 言い方がきつくなった。 律は一度、視線を落とした。「では、私からは止めません」「必要なら、こちらから言います」 律は、今度は言葉を足さずに頷いた。 素直な返事に、こちらの方が戸惑った。律は肘掛けの端を指で一度なぞった。「……今のは、少し八つ当たりでした」「受け取っておきます」 それで会話は終わった。 紙片の文字へ視線を戻す。 でも、紙片の文字はそこにある。 白桐産院。五月十七日。狭山。葛城へ。 紙片に並んだ文字は短い。短いのに、そこには人の出入りと、誰かの判断と、閉じられた扉の匂いまで混ざっている。産院という文字を見ているだけで、白い壁、薬品の匂い、泣き声を押し殺す誰かの手を想像してしまう。 祖母は、この紙をどこまで理解して残したのだろう。全部を知っていたのか、断片だけを拾って、私へ渡「録音を開始します」 高瀬さんがレコーダーのボタンを押した。 赤いランプが点く。 葛城はそれを一度見て、軽く頷いた。「構いません。私がここへ来たことも、記録に残していただいて結構です」「では、まず確認します。葛城静司さんご本人ですね」「葛城静司です」「本日持参された資料について、入手経路と保管状況を説明してください」 高瀬さんが事務的に進める。 葛城は鞄の持ち手に指を置いたまま、ゆっくり話し始めた。「白桐産院旧棟の閉鎖時、廃棄に回るはずだった事務記録の控えです。原本じゃありません。父が関係していたので、私が一部を持っていた。正規の保管ではありません。……だから、これだけで法的な決定打にはならない」 自分に不利なことを、先に言った。 その慎重さが、かえって気持ち悪かった。「それでも、持ってきた理由は」 高瀬さんが聞く。「もう、隠しても意味がないからです」 葛城はそう言って、私を見た。 目が合う。 穏やかな目だった。けれどそこには、会えて嬉しいという温度がうっすら残っていた。 私は膝の上で手を重ねた。「……私の人生を、見てたんですか」 葛城は一度だけ視線を落とした。「見ていました」 あまりに短い返事で、かえって腹が立った。 律の手が、車椅子の肘掛けの上で止まる。 葛城は続けた。「二十四年前、私はあなたの存在を知りました。白桐産院で何が起きたのかも、完全じゃないにせよ、早い段階で知ってました。その後、あなたが如月家に引き取られたことも、三年前に家を出されたことも」 その先の説明が、一瞬、耳に入らなくなった。 知っていた。 私がコンビニで深夜に立っていたことも、祖母の病室へ行けずにいたことも、三年前に電話を切られたことも。 どこまで。 聞こうとして、声が出なかった。「結局、何もしなかったんですね」 代わりに出た言葉は、それだ
午後の白い光が窓に残り、誰も手をつけない湯呑みの茶は冷めていた。 榊グループ別館の小会議室は広すぎない。長机が一つ、椅子が六脚。 机の中央には、高瀬さんが用意した記録用のレコーダーが置かれていた。赤いランプは、まだ点いていない。 私はそのランプを見ていた。 赤く光れば、ここで交わされる言葉は記録になる。 でも、記録になったからといって、すべてが真実になるわけではない。 三年前、私はそれを嫌というほど知った。「今から断っても構いません」 隣から律の声がした。 今日も黒い仮面をつけている。車椅子には座っているが、膝にはいつもの薄いブランケットがかかっている。外から見れば、以前と同じ榊律だ。けれど、私だけが少し違うものを聞いてしまった後だった。 黒い仮面の下に、噂とは違う顔があること。 隠していた理由。 隠されていた時間。 それを許せたわけではない。けれど今、私の前にある問題は、それよりずっと古い。「来てもらった以上、会います」 自分の声は、思ったより乾いていた。 律は視線を下げ、言い返さずに机の端に置かれた封筒へ目を向けた。 葛城静司から届いた面会の申し入れ。 高瀬さんが、書類を確認しながら言った。「本日の面談は、榊側法務同席、録音あり、葛城氏持参資料についてはその場で原本確認のみ。受領する場合は、受領書を作成します。朝霧さん、途中退席も可能です」「進めてください」「葛城氏には、質問への回答義務はありません。ただし、虚偽説明が確認された場合、今後の協議は打ち切ると伝えています」 高瀬さんの言葉は淡々としている。だから助かった。今、優しい声で大丈夫ですかと聞かれたら、たぶん立っていられなかった。 ドアの外で、控えめなノックがした。 相良さんが扉を開ける。 入ってきた男は、写真で見た印象より少し細かった。 五十代ほど。背筋は伸びているが、肩に力はない。濃い灰色のスーツに、古い革の書類鞄。目元は穏やかで、笑っているようにも、何も感じていないようにも見えた。
「手順の線引きは、高瀬に任せましょう」「私を止める役まで、榊さんが引き受けないでください」 言い方がきつくなった。 律は一度、視線を落とした。「では、私からは止めません」「必要なら、こちらから言います」 律は、今度は言葉を足さずに頷いた。 素直な返事に、こちらの方が戸惑った。律は肘掛けの端を指で一度なぞった。「……今のは、少し八つ当たりでした」「受け取っておきます」 それで会話は終わった。 紙片の文字へ視線を戻す。 でも、紙片の文字はそこにある。 白桐産院。五月十七日。狭山。葛城へ。 紙片に並んだ文字は短い。短いのに、そこには人の出入りと、誰かの判断と、閉じられた扉の匂いまで混ざっている。産院という文字を見ているだけで、白い壁、薬品の匂い、泣き声を押し殺す誰かの手を想像してしまう。 祖母は、この紙をどこまで理解して残したのだろう。全部を知っていたのか、断片だけを拾って、私へ渡そうとしたのか。聞けない問いばかりが増えていく。守り袋は、祖母の愛の形だったはずなのに、今は刃物の鞘にも見えた。 祖母の死が、まだ乾かないうちに、私の出生は別の扉を開けている。 高瀬さんが紙片を保全袋に入れ、封緘した。管理番号を書き、時刻を読み上げる。宮野さんが守り袋を別の柔らかい布の上へ戻し、切った糸の写真を撮った。「葛城静司へ、正式に照会します」 高瀬さんが言った。「先方からの接触を待つより、こちらから?」「既に一度、封筒を送ってきています。接触の意思はあると見ていいでしょう。ただ、面会場所と同席者はこちらで指定します」「私も行きます」 私が言うと、律はすぐには頷かなかった。 また止められるのかと思った。 けれど、律は少し間を置いてから言った。「行く前提で、条件を詰めましょう」「分かりました」 私は紙片へ視線を戻した。 高瀬さんの端末に通知音が鳴った。 端末に表示された差出人を、全員が見た。
取り出された紙片は、指二本分ほどの幅しかなかった。端は黒ずみ、折り目のところが白く割れている。 高瀬さんがライトを寄せた。 紙には、青いインクで短い文字が書かれていた。『白桐産院 旧棟』『五月十七日 深夜』『看護師長 狭山』『葛城へ』 たった、それだけだった。 日付を読んだところで、目が止まった。 五月十七日。 私の誕生日。 頭では分かっていた。識別バンドにも、葛城から送られた写真にも、その日付はあった。 それでも、祖母の守り袋の内側から同じ日付が出てくると、別の重さになる。「……どうして」 声が、紙片の上に落ちた。 高瀬さんも律も、答えるまでに間があった。分からないことを分からないままにしているのだと、頭では理解できた。 それでも、今はその慎重さが痛かった。「祖母は、これを知ってたんですね」 私は紙片から目を離せないまま言った。「少なくとも、これを守り袋に縫い込ませるか、縫い込まれたことを知る立場にはいた可能性があります」 高瀬さんの言葉は慎重だった。「可能性」「断定できる段階じゃありません」「分かってます」 言ったものの、語尾は自分でも分かるくらい硬かった。 祖母は私に、あなたは誰かの代わりじゃない、と言った。 なら、どうしてもっと早く言ってくれなかったのだろう。 あなたがどこから来た子なのか。誰が隠したのか。誰が私を如月家に置いたのか。 聞きたかった。 もう聞けない。 手袋越しの手が、紙片に触れる寸前で止まった。「狭山という姓に、心当たりはありますか」 律が高瀬さんに尋ねる。「現時点では、ありません。ただ、白桐産院の旧棟は二十年以上前に閉鎖されています。その後、白桐記念クリニック、白桐メディカルセンターと名称が変わっている。KMSホールディングスの傘下に入った時期と、重なるかもしれません」「葛城へ、っていうのは」
「形見なら、大げさなくらいでいい」 返す言葉が見つからなかった。 窓の外で、信号の赤い光が雨粒に割れている。私は保全袋を抱えるように、両手を重ねた。 赤い信号が消えても、保全袋から手を離せなかった。 祖母。 祖母を責める考えが浮かび、すぐに打ち消した。それでも、問いは残った。 榊邸に戻ると、玄関ホールはいつもより静かだった。 葬儀から戻った私に、使用人たちは深く頭を下げた。誰も大げさに声をかけない。黒い喪服の裾が、磨かれた床に淡く映っている。 書斎にはすでに高瀬さんがいた。机の上には白い布、薄い手袋、透明の保全袋、撮影用の小型ライトが並べられている。宮野さんも少し離れた場所に立ち、裁縫箱ではなく、細いピンセットと糸切りばさみを用意していた。「朝霧様」 高瀬さんが立ち上がる。「作業前に確認します。これから見るのは、守り袋の外側と、縫い込み部分です。できるだけ布を傷めないよう進めます。全工程を動画で残し、取り出した紙片は別の保全袋へ。……よろしいですか」 言葉だけ聞くと、祖母の形見ではなく、事件の証拠みたいだった。 祖母の形見を証拠として扱う言葉に、返事が遅れた。 私は守り袋を見たまま、どうにか頷いた。 頷いたはずなのに、喉の奥はまだ固く閉じていた。 律が横から口を挟んだ。「始めたあとでも、あなたの一言で止めます」「止めたら、祖母が隠したものも、そのままになります」「隠したのか、守ったのかは、まだ分からない」 その区切りに、少し救われた。 祖母が嘘をついていた、と決めるのは早い。 でも、何も知らなかった、と信じるには、守り袋は重すぎる。 私は椅子に座り、保全袋から守り袋を取り出した。 薄い赤の布地は、ところどころ色が抜けている。角の金糸はほつれ、内側には細かな綿のふくらみがある。祖母の手紙にあった通り、裏側の縫い目だけが少し不自然だった。 宮野さんがライトを当てると、縫い目の下に、紙の影のようなものが浮かんだ。「縫い目の下に、紙が
葬儀場の裏口を出た瞬間、線香の匂いが薄くなった。 車輪が厚い敷物を押し、かすかな軋みだけを残した。 代わりに、濡れたアスファルトの匂いがした。夕方から細い雨が降っていたらしい。屋根の端から水滴が落ち、黒い石畳に小さな輪を作っている。 私は喪服の袖口を押さえた。まだ指先に、九条康生の視線の重さが残っていた。 あなたは、ここにいるべき人ではなかった。 あの言葉は、葬儀場の音の中に紛れなかった。焼香の鈴の音よりも、親族のすすり泣きよりも、ずっとはっきり残っている。 ここ、とはどこなのか。 如月家なのか。 祖母の葬儀の場なのか。 それとも、私の人生そのものなのか。 車寄せに榊家の車が停まっていた。相良さんが後部座席の扉を開け、律は車椅子のまま私を見上げる位置にいた。「このまま、榊邸へ戻れますか」 短い問いだった。 大丈夫です、と言いそうになって、やめた。「帰るしか、ありません」「では、今は戻りましょう」 律は康生の話を続けなかった。私も口を開けないまま、膝の保全袋の端を指でなぞった。 車が動き出すと、窓の外で葬儀場の白い灯りが遠ざかった。膝の上の小さな保全袋が、雨の光を受けて曇って見える。 守り袋。 祖母が、私に残したもの。 蔵の暗がりから取り戻した、古びた布の重さが、今さら膝に沈んでくる。「今日、ここで開ける必要はありません」 律が言った。 私は返事をしなかった。 開けたくない。けれど、開けなければならない。祖母はもういない。聞き返す相手は、どこにもいない。「……開けるのが怖いです」 律は保全袋へ目を落とした。「今、開けなくてもいい」「でも」「戻ってからでも、遅くない」 私は横を見た。 律の顔は、車内の薄暗さと黒い仮面で半分だけ影になっていた。左側の頬に手をやる癖だけが、仮面の縁の上に残っている。隠している時間の長さは、そう簡単には消えないのだろう。「ずいぶん
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







